2004年の冬に15歳で中国語を始め、高校卒業後は北京に2年3か月留学していました。
現在はフリーの日中英語通訳として時々お仕事をいただいています。
2017年11月にはMr.マリックの通訳として1週間上海に同行しました。マジシャンとしてトリリンガルとして最高の時間でした!
いつ思い返しても中国語との付き合いは長く、様々な想いでがあります。
今日、この場で「なぜ中国語なのか」自分を振り返ってみようとおもいます。
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映画で中国語の存在を知る
中国語に興味を持ったきっかけはずっと幼い頃に見た映画『インディージョーンズ 魔宮の伝説』のワンシーンでした。
映画のラストでつり橋に追い込まれたインディージョンズが仲間のアジア系の男の子に中国語(たぶん)で「綱を握れ!」と言う場面。
周囲の敵には悟られないように英語ではなく中国語で会話するのです。
そんな秘密の会話ができる中国語に心がときめいたわけです。
きっと中国語でなくても良かったんだろうけど、15歳になる頃には中国語じゃなきゃダメなほどに強い関心を抱くようになります。
公民館でおじちゃんと学ぶ
地元の公民館で行われていた中国語講座に通い始めました。中学校3年生、15歳の冬のことです。
地元のおじちゃんと中国人の先生を囲み中国語を学びます。
毎回3ページくらい進むんだけど、3年間通ってテキストは全部終わらなかった。
学びは少なかったかもしれないけど、中国語に対する好奇心が日に日に増し留学へのモチベーションを維持できたことは間違いない。
「出てけ!」と言われた高校時代
高校生になると英語を学ぶ意味が分からなくなりました。
だってみんなで同じ言語を学ぶ必要性って何?
僕が一人中国語を話せるだけで、僕を介して13億人(当時の人口だったと思う)と話せるんだよ!?
そんな考えを体現するように高校の3年間は英語の授業中に中国語を勉強していました。
教師に注意されても続けていて、とうとう「出てけ!」なんて言われる始末。
それでも僕には信念があった「違うことをしていても間違ってはいない」って
そんな教師の圧力に反発するように中国留学への気持ちはうんと強くなる一方だったんだな。
*因みに僕は中学も高校も自由の森学園です。 限度はあれどこういうことが許される学校なの。
*因みに「お願いだからこれだけは覚えて!」とよっしー(英語の教員)に言われ“I am”、”you are”など主語とBe動詞だけ覚えて卒業しました。
留学のために両親にプレゼン
高校3年生になり同級生が大学や専門学校、世界一周旅行など進路を決める中でも僕の留学意欲は不動のものでした。
そして僕も進路を決める時期が迫ります。
両親は中国に行きたいことは知っていてももう少し先の事だと考えていたようで、あまり真に受けていなかったような気がする。
そこで留学の斡旋業者に1人で出向き大学の種類や願書の出し方、お金関係の説明を受けてきました。
そしてその晩、もらった資料をテーブルに広げてプレゼンスタート!
「中国語を学んでこんなことをしたい」
「中国語を学ぶと今の社会ではこんなメリットがある」
「これくらいのお金が年間かかるから用意してほしい」
「いつ頃にこういう手続きが必要で、いつ頃出発する」
説明を進めていくうちに母親の目が赤くなったのを覚えています。きっと我が子が巣立つのを寂しく思ったんでしょう。
それでも首を縦に振ってくれた母には感謝です(父は二つ返事でOKでしたw)
留学決定から出発まで
実際には斡旋業者は使わず知り合いの知り合いに手伝ってもらう形で費用を抑えることに成功します。
入学許可証が手元に届いたのはいつ頃だったかな?
ビザ申請の為に許可証を持って広尾の中国大使館まで行った時はワクワクが止まらなかったな。
形式的な準備を終えてあとは残る高校生活を満喫するだけ。
みんなそれぞれの道に進むわけだけど、北京留学を選んだ特殊な自分に優越感と不安感を同時に抱いていました。
まぁ、そんなもの北京に到着したら生きるのに必死で何も感じなくなるんだけどねw
出発当日
高校卒業式から丁度1か月後の2007年4月3日に北京に向けて旅立ちます。
新調したスーツケースにいっぱいの洋服とマジック道具を詰め込んで意気揚々に成田空港に向かいます。
夢も希望も入らないくらいパンパンだったw
お見送りは要らないからと母とは池袋駅で別れます。
電車の中からガラス越しに見る母親の顔が歪んで見えた。
あの時は泣くのを我慢してたんだろうね。
そんな顔を始めた見たもんだから「悔いの残らないように必死に勉強してやる!」って決意したよね。
そしてその思いは200%果たすことができたと思う。
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最後に
いつ思い返しても中国留学中の自分はホントに頑張ったと思う。一日16時間、効率は悪かったけどひたすらに勉強した。
もっと友達と遊ぶべきだと後悔する部分はあるけれど、勉強に関してはやり切った。
中国で過ごした18、19の自分には今でも頭が上がらない。
そして今も、これからも中国語との出会いやジジババと中国語を学んだ公民館の存在、モチベーションを維持できた様々な出来事に感謝したい。